ストレスの正体とは?

仏教というのは、心のあり方について説かれています。対象は髪でもなく、魂でもなく、今現在わたしたちが感じている心について、その悩みや苦しみを清らかにするための教えです。

 

普段生活しているうえで、何かしらのストレスを感じている人がひとんどです。

なぜこんなにも苦しいのか、この状況をどうすればいいのか、本当の幸福はどうすれば感じられるのか、穏やかに過ごすにはどうしたらいいのか、などなど、

仏教というのは、それに至るまでの方法についての説明のようなもんです。

 

別に、私は仏教をオススメしているわけではありませんが、仏教を知らないが故に間違った認識を持っている人も多いようです。

仏教というと、意味のわからない念仏をひたすら唱えているイメージがありますが、本来、人生への向き合いから、心の持ちようみたいなことを、ただシンプルに説明しているのが仏教です。

お釈迦様という一人の人間が、ただ人生や普段の生活に対する苦しみへの心構えを説いたのが仏教です。

ですから、非常に取っつきにくいイメージがありますが、実は、かなり現実的というか、実践的な方法論を言っています。

 

ストレスとは?

実は、仏教の文献にはストレスに当たる言葉がないんだそうです。

ということは、昔はストレスがなかったのでしょうか。

 

未だにストレスを解決できる方法は見つかっていません。

あれがいい、これがいいというのはありますが、どれも模索状態で、これだという方法ではありません。

つまり、ストレスが一体何のか、またはっきりわかっていないということです。

 

たとえば、ストレスから頭痛がしたり、胃が痛くなったりすることがありますが、検査を受けるとその箇所に悪いところは見つかりません。

そこで、医者はどんな治療をするのかというと、ストレスの原因が不明なので、とりあえず痛いところの薬を処方するのです。

 

これってなんだかおかしいですよね。

ストレスから頭痛や腹痛がするのに、その原因にアプローチすることなく、悪くもない箇所の薬を処方するのですから。

それだけ、ストレスというものの正体が未だにつかめていないという証拠なのです。

 

ストレスは必要?

一般的には、過労や人間関係などによってストレスを感じることが多いです。

では、忙しさや嫌な人間関係がなくなったらストレスがなくなるかというと、そういうわけでもありません。

 

たとえば、休日に旅行に出かけ、とても楽しかったのにも関わらず、帰り際になると、「もう1日が終わってしまう」と少し憂鬱な気持ちになります。

かといって、何もしないと、それはそれで退屈になり、ストレスを感じます。退屈になると暗い気持ちになり、落ち込みます。

 

もし嫌なことをやるときにストレスを感じるのであれば、それをやめればストレスから解消されます。

しかし、実際は楽しいことをしていても、必ずストレスはつきまといます。

そう考えると、ストレスとは相当厄介なもので、解消されないものなのかもしれません。

 

ストレスには2種類ある

嫌なときも楽しいときもストレスを感じる。

忙しいときも暇なときもストレスを感じる。

友人と話していても上司と話していてもストレスを感じる。

 

つまり、ストレスには2種類あるのです。

嫌なときにかかるストレスは、身体に悪い影響を及ぼします。

一方、感動したり楽しんだりしているときにもストレスがかかるわけです。

 

この良い方のストレスは、人が成長するときに感じるものです。「これじゃだめだ、もっと成長しなくては」という具合に。たとえば、緊張感なんかもいい衝動です。

 

たとえば、火事に巻き込まれ、とっさに逃げ道を探す、といった衝動は生きていくために必要な衝動、つまり良いストレスということになります。

ものすごいストレスのかかった状態に追い詰められ、その結果、逃げることを選択する。

これは、人間が生き延びるための強い衝動です。

一見、逃げるのは悪いことのように思えますが、これはいいストレスです。むしろ生きていくためには必要な要素で、これがいわゆるいいストレスです。

 

したがって、

自分を成長させたい

心を清らかにしたい

善い行動を取りたい

といった衝動は、いいストレスなのです。

それ以外は、悪いストレスということになります。

 

ようは心の姿勢による

では、その悪いストレスはどのような心の持ちようから来るのかというと、仏教では「貪り(むさぼり)」「怒り」「無知」になります。

 

では、実際の状況に当てはめてみると、

貪り

とても恵まれた環境にいながら、もっといい状況を欲しがる

これが、そのままストレスになります。

怒り

その人を思って注意すると、当人はただ否定されたと感じ、反発する。注意してくれる人の気持ちも知れず。

これも怒りというストレスです。

無知

たとえば、職場で毎日残業をせずに、早々に帰宅する人がいる。そういう人に限って仕事ができない。それを見たあなたは、「なんであいつは早く帰ってんだ」と怒れてくる。

しかし、その人は毎日仕事終わりに、寝たきりになった妻のお見舞いに行っていたらどうだろう。その人を責めることができるだろうか。

これは、無知が故のストレスです。

 

つまり、悪い方のストレスは、その人を取り巻く環境によってもたらされているかのように思えますが、結局のところ、その人の心も働きによって生まれているのが理解できると思います。

 

したがって、ストレスとは、あくまでも自分自身の問題なのです。

それを周りのせいにしても、ストレスは解消されるどころか、ますます思い通りにならずに膨らんでいきます。

ですから、自分がストレスを感じ、それを周りのせいにしたり、当たり散らしたりするのは、完全なお門違いなのです。

 

しかし、ストレスと感じたときこそ、自分の乱れた心の姿勢に気づくチャンスでもあるのです。

そのとき、自分に貪り、怒り、無知がないか確認するのです。

 

そういうのに気づき、自分の心の有り様を見つめ、反省を繰り返していくと、やがて心は穏やかになり、それに応じて周りの世界も鑑のようにあなたの心を反映するのです。